アニメにしろ漫画にしろ、作品の中に少なからず疑問が残るものです。
あえて作者が描かなかったのか、時間的に描きたくても描けなかったのか、はたまた自分だけがわかっていないのか。
状況はいろいろとあるものだと思いますが、この「雲のむこう、約束の場所」にもそんな疑問がひとつ存在していました。
それは・・・「オープニングで藤沢浩紀は何をしていたのか?」もう少し本質的なところを抜き出すと「どうして一人だったのか?」ということです。
これは、私以外にも本編を見終わった後に疑問に思った人はいると思います。
しばらくの間疑問のまま方っておいたのですが、意外な場所で私が納得できる解釈を目にすることができたのです。
その場所とは「Amazon.co.jpのカスタマーレビュー(「雲のむこう、約束の場所」のDVDに対するレビュー)」
そのなかの「ああああああ!!!」さんの「「初恋」が辿り着いた先, 」というレビューの中にこんなことが書かれていました。
冒頭、彼は1人きりであの地に再訪し、想いを馳せる。
歌詞でも示された通り、彼の恋心が成就しなかったこと、全ては遠い過去になり二度と届かなくなったこと、
それでも名残雪のように、微かに確かに心に残っていることを示す。
この文章を読んだ瞬間に私の中の疑問が一気に吹っ飛んでしまいました。
「ああああああ!!!」さんのレビューにも書かれていたが、「雲のむこう、約束の場所」は初恋の物語なのです。
あれほど劇的な状況の中で結ばれたかに見えた(おそらく一時的には結ばれていたのでしょう)二人が結局は別の道を歩むようになってしまう。
ただただ青春を淡々と描いているかに見えて、一番最初にシーンでなんともリアルで、残酷で、哀しくて、それでいて誰もが通り過ぎる瞬間を描いている。
「あの後きっと二人は幸せに暮らしたのだろう」などという幼稚な幻想は最初の一歩で打ちのめされていたのです。
そして私は思うのです。
「やはり我々はどこかで悲劇を求めている」と。
これは「二人が別れる」という意味の悲劇ではなく、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」に見られるような悲劇です。
私は「無敵超人ザンボット3」の「私の目線」に「悲劇の必要性とは?」という文章を書きましたが、この作品にも同じよなことを感じるのです。
簡単に述べると「もし浩紀と佐由理 が死んでいたら、二人が別れるというような-必然的な-絶望を目にすることはなかった」ということです。
我々は「ひとつの愛や恋が永遠に続くことなんてありえない」ということを悟ってしまっています。だからロミオとジュリエットは死ななくてはならなかったし、その死を通じてのみ二人の愛は永遠になるのです。
でもこの作品で二人が死ぬことはなく、必然的な別れを迎えてしまった。
現実的な話をすれば、永遠の愛のために死ぬよりも、生きて別の幸せを探すことの方が良いでしょうし、その先にこそ真実の愛があるのかもしれません。
また、「死」という悲劇を追い求めるのは読者や視聴者の身勝手ともいえます。
どちらがアニメとして正しい道かなんてことは決めることはできませんが、少なくともこの作品では文学的で退廃的な美を描いたのではなく、思い出すべき過去を描いたのだということです。
そう、青春とは思い出すべき過去のこと
やはり新海誠が描きたかったのは「恋」ではなく「初恋」なのだろう。
だからこそ、初恋という青春を思い出す人がそこにいなくてはならない。
「死」という悲劇を避けることによる-身勝手な-哀しみがそこにはあるが、それ故に新海誠が描こうとしたものがきちんとそこに現れているようにも思われるのです。
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