「機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争」には、派手な戦闘シーンもなければカッコイイヒーローも出てきません。コメントにも書きましたが、小学生時分に見て面白いものではありませんでした。
しかしながら、ある意味非常に素朴ではありますが、この作品の中は「戦争」というもの(少なくともガンダムの世界での戦争)に対する大事な視点を与えてくれるものであると思うようになったのです。
ではこの目線はいったい何なのか?ということを話していこうと思います。
「機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争」では、一年戦争という大きな混乱の中にあって、コロニーというほんの小さな場所を舞台にしているということ、そしてあの作戦が戦略的には何の意味もないということ、この二つの事柄が物語の内容をいっそう切ないものにしています。
例えば
アレックスの開発、アレックスの奪取、クリスとの恋、そしてバーニィの死・・・
どれをとってみても一年戦争という大きな渦に飲み込まれてしまう些細な出来事です。アレックスが実践投入されていても、逆に破壊されていても、戦況を大きく変えることがなかったこと(実際はまったく変えないものと思われます)は自明なことです。また、たかだかひとりの軍人の恋や死など統計上の数字にもなりません。
ですが、「ポケットの中の戦争」の中に感じる"切なさ"や"悲しさ"は幻なのでしょうか?
確かに一年戦争という大きな混乱の中にあっては小さな出来事に過ぎません。しかしながら、その小さな出来事の中で人々が必死で生き抜いたことは紛れもない事実であり(アニメの中ではありますが)、そのこと自体は決して「小さな出来事」ではありません。
戦争全体から見れば小さなことでも、ひとつのコロニーの中で多くの人が死に、悲恋を演じたことは事実でありこれは到底無視のできる段階の問題ではないのです。
「機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争」は表面上は確かに「ポケットの中の戦争」を描いていますが、内容をじっくり見ると「これはポケットの中の戦争ではない!」という思いがどんどん増してきます。
色々考えてみると戦争というものはこの「ポケットならざるポケットの中の戦争」の集合体であるような気がします。
ホワイトベースだって「ポケットの中の戦争」であることに変わりありません。実際問題として、ガンダムがあろうがなかろうが一年戦争の結末は同じであったはずで、それはアムロやホワイトベース自身についても同じことです。大事なことはガンダムを量産することでありガンダム自信が強くなることではないし、ホワイトベース級を量産できることでありホワイトベースが活躍することではありません。そういう意味でホワイトベースを中心として描いた元祖の「機動戦士ガンダム」もひとつの「ポケットの中の戦争」であるわけです。ですが「ポケットの中の戦争」でありながら「ポケットの中の戦争」とは到底いえない"切なさ"や"悲しさ"(あるいは喜び)が物語の随所に描かれていたずです。
このように「機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争」は「ポケットの中の戦争」というキーワードを使ったことにより逆にそれが「ポケットの中の戦争」ではないことが強調され、その他のガンダム作品への新しい目線を提供してくれているのです。
製作者側としては、コロニーという小さな場所そして終戦間近のほとんど意味を成さない作戦のなかで起こるドラマを単純に描きたかっただけかもしれません。
しかしながら結果としてこの作品はガンダム全体、もしかしたら戦争そのもに対する新しくも素朴な目線を提供してくれているのです。
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