無敵超人ザンボット3 メモリアルボックス ANNIVERSARY EDITION【初回限定生産

悲劇の必要性とは?

アニメに限らず、物語には何らかの悲劇がついてまわる。

そしてその悲劇の形は様々である。

失恋かもしれないし、親しい友人との確執かもしれない。そして誰かの死かもしれない。

でもどうして物語には悲劇がついてまわるのだろうか?別に世の中に存在する物語がすべからく一貫した幸せの中にあってもよいような気がする。

表面的な理由のひとつは明らかだ。それは商業的な理由で「そのほうが売れるから」である。

今日世の中に存在する物語の多くは本の形で出版されている。そうなれば当然出版する会社がなくてはならないが、彼らとてボランティアで本を出版しているわけではないので売れると期待できなくてはならない。

したがって、世の中に存在する物語の多くが悲劇的であることの理由のひとつを商業的なものに押し付けることは可能なことだし。実際そうだとおもう。

しかしながら、我々が考えなくてはならないのは「なぜ悲劇的なものの方が売れるのか」言い換えると「人々はなぜ悲劇を求めるのか」ということです。

誰かが自分よりも不幸であると思って優越感を得たいのでしょうか?それはそれで正しいと思います。そういうことは確かに醜いことですが、そういう欲求を完全に悪なるものとして非難することもできない。なぜなら自分を否定することになりかねないから。

でも本当にそれだけだろうか?

物語が悲劇的であることにはもっと他の必然性があるのではないだろうか?

得にザンボット3のラストに描かれるような死という悲劇性はなぜ描かれなくてはならないのか?

私なりに考え、ひとつの答えにたどり着いた。

それは「死は完全なる完結を与える」ということだ。

物語のエンディングに余韻を残すのは確かによい演出かもしれない。物語のその後に色々と思いをはせることができるからだ。

しかしながら、そういう思いには一切の制限がなく、せっかく幸せの中で終わった物語でもまったくナンセンスな続きを考えることができてしまう。

それは物語を壊していることに他ならない。

しかしながら死という悲劇はそのような思いに絶対的な制限を与えることができる。

たとえば「ロミオとジュリエット」。

反目しあう一族同士の子供同士に芽生えた愛に、死を持って終焉を迎えさせることの意味は何なのか?

少し考えてみてください。もしもあの物語に死という悲劇がなかったとしたら、二人はどこかに逃げるなり、奇跡的に親を説得するということになるでしょうが、あの二人の愛がずっとそのままでいることが本当に可能なのだろうか?

変わらなかったという想像もできるが、結局二人がお互いに飽きてしまうという最悪の未来だって想像できてしまうのだ。

「そんな想像なんかだれもしないよ!」といいたくなるかもしれませんが、そういう想像の余地があるということが問題のだ。あなたが想像しなくても誰かが想像するかもしれない。そしてその話をあなたが聞くかもしれない。

それは見事にあなたの愛する物語の世界を壊すことになるのではないか?

ところが、実際の物語のように死という悲劇が存在すると自体はまったく変わってくることになる。

二人の愛は永遠に美しく輝き、その後の崩壊などある得ないものに変わるのだ。

つまりは、物語の世界の崩壊を防ぐためには死という悲劇はものすごく有用なものなのだ。

そして「無敵超人ザンボット3」についても同じようなことを考えることができる。

物語の終盤に「ザンボット3」ではたくさんの人が死んでいく。

祖父と祖母、父、叔父、そして仲間

なぜ彼らが死ななくてはならなかったのか?

それは彼らが特攻という戦法をとらなくてはならないほどガイゾックが強大であったことがひとつの理由だ

しかしそれだけではない。

彼らが生きていると、彼らが地球に戻ってからの話をいくらでも想像できてしまうからである。

ひとつの都合のよい想像は「彼らが地球を守った英雄として迎えられ、以後幸せにすごしました」というものだ。

だがそれ以外の想像もありうる。

彼らは再び「『地球を危機に陥れた悪』そして世間から見られ、悲痛な思いの中で死んでいく」というものだ。

ところがどっこい。彼らが死という悲劇に見舞われると話が違ってくる。

彼らの思いは永遠に輝き、ずっと英雄でいられるのだ。

そういう点で言うと、勝平が生きていたことは、見ているそのときは安心できることだが、実は彼も死という悲劇の中にあったほうがよかったのではないかとも思える。

少々突っ込んだ話になるが、物語の終盤の勝平の祖父の言葉を聞くと、世界中にザンボット3とビアルの設計図がわたっていることになる。ガイゾックとの戦いの後にその開発がストップするとは到底思えない。

きっと世界は新しい戦争の世紀へと突入していくことになる。

そうなったときに人々が戦争の苦しみをぶつける格好の餌食になるのが勝平たち神ファミリーであることは間違いない。

勝平がそんな目にあうのははっきり言っていやなのだ。

だが勝平が生き残った以上そのような想像が可能になる。

非常に自己満足的で、ある意味残酷なことだが、もっともよいエンディングは勝平を含め、神ファミリー全員が死ぬことであったように思えてならない。

このような思いを抱いてしまうのも「無敵超人ザンボット3」の世界観のなせる業といえる。

もしも「ザンボット3」がよくあるご都合主義のロボットアニメだったら、勝平が生き残ったことを本当に喜び、祖父たちが死んだことを心のそこから悲しめたはずなのだ。

このページに描いたようなことに思いをはせることができただけでも「無敵超人ザンボット3」を見た甲斐があったと思う。

これを読んでいるあなたにも、「ザンボット3」を通じていろんなことを考えてほしいと思います。

最後に「人々はなぜ悲劇を求めるのか」という疑問についての解答を、死という悲劇に限定して与えることにする。

それは、人々は「美しいものを美しいままにしておきたい」と願うからだ。

死という「完全なる完結」は悲しみを誘うだけではなく、物語を保存する格好の保存料なのだ。

P.S.

自分の考えていることがなかなかうまく表現できなかったので、多分に理解不能なところがあったかもしれないし、反証可能なことを普遍的なことのように言い切っているところもあったと思います。ですがそこのところは大目に見て、一つの考えとして広い心で見てやってください。

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